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井伊直弼の生涯

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井伊直弼は、1815(文化12)年10月29日、十一代藩主井伊直中の十四男として、彦根城中・槻御殿(黒御門前屋敷)で誕生しました。直中は当時50歳で十四男五女の子福者でした。直弼の母堂は側室のお富の方(当時31歳)で、彦根御前と称され美貌の賢夫人として評判でした。直弼は幼名を「鉄之介」と名付けられましたが、後に「鉄三郎」に改められています。直弼は5歳の時に生母と死別し、その後も槻御殿で暮らしていましたが、父直中が1831(天保2)年5月25日に亡くなったので、藩の掟に従い同年10月28日に弟・直恭とともに、佐和口御門前にある藩の御用屋敷・尾末町屋敷(後の埋木舎)に移りました。直弼17歳の時のことです。その後は、三百俵の被進米(まいらされまい)を給せられて質素な生活を送ることになりました。彦根藩では、家を継ぐ嫡子以外の庶子たちは、家を出て他の諸侯の養子となるか、名門の家臣に養われて臣下として井伊家に仕えるか、僧侶になるか、そのいずれでもない者は生活費として「被進米」を給わり質素な一生を送るか、という庶子養育制度が確立していました。直弼は、藩主の実子とはいえ、藩主や世嗣とは比較にならないほどの質素な生活を1846(弘化3年)まで過ごすことになります。

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尾末町屋敷に移って一年後の1832(天保3)年、直弼は元服の儀式を行っています。前年の17歳に行われる予定が、直中死去により延期になったためだといいます。そして1834(天保5)年の秋、藩主直亮のはからいで、直弼は弟・直恭とともに、諸侯の養子候補として江戸へ向かうことになりました。直弼は屋敷を出る時、再びここでの窮乏生活にもどることはあるまいと喜び、知人を集めて別れの宴を催したほどでした。ところが桜田の藩邸で直恭とともに養子の面接を受けたところ、直弼は採用されず、弟・直恭は日向延岡藩との縁組が決まり、名を内藤政義と改め、能登守に任ぜられ七万石の城主となりました。なぜ直弼の養子縁組が決まらなかったのかの憶測は多々ありますが、どれも確証はありません。しかし、養子縁組もできず、失意に打ちひしがれていた自らを励ます気持ちからか、江戸藩邸の仮住まい「添御館」で、「うもれぎのやの言葉」を記しています。1835(天保6)年8月、直弼は再び彦根の埋木舎に戻った直弼は、「予は一日に二時(時間)眠れば足る」といって、以前にもまして寝食を忘れて文武の修練に精進しました。茶道、和歌、能は達人の域で、禅(清凉寺・仙英禅師に帰依して袈裟血脈さえも授与された)、国学、諸、楽焼、湖東焼さらには国際情勢までの「文」と居合術(新心新流を創設~勝を保つため滅多に刀は抜かない「保剣」を重視~)、柔術、武術、弓術等の「武」と文武両道の修練に励んだのであります。

ところが、約十年後の1846(弘化3)年1月13日に十二代藩主直亮の嗣子・直元が38歳の若さで逝去すると、その代わりの嗣子として、ついに直弼に順番が回ってきたのです。直弼は17歳から32歳までの十五年間を過ごしてきた埋木舎を離れ、2月1日に彦根を発ち10日に江戸に到着しました。幕府から直弼を養子とする願い出にも許可が下り、2月28日に江戸城で直弼と将軍との初お目見えの儀式が無事終了すると、同年12月16日、直弼は従四位下侍従に任じられ、江戸での公務が始まりました。一方、この頃には西欧列強が次々と日本沿岸に来航するようになっていました。1850(嘉永3)年の9月に藩主直亮が死去すると、直弼はその所領を引継ぎ、翌年には十三代彦根藩主に就任しました。藩主としての直弼は、先ず先代の遺産十五万両を家臣や寺社、領民に分配し、優秀な人材の登用、公平な裁判の推進、それに領地をくまなく巡見するなど、埋木舎時代に形成した人格と政治信条により、当時としては画期的な善政と藩政改革を実践しました。また1852(嘉永5)年には、井伊家の格式から直弼37歳の時、丹波亀山前藩主松平信豪公の娘18歳の昌子様を正室に迎え入れています。(その時、大久保小膳は御婚儀の御用掛を務めました)

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江戸城富士見櫓
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1853(嘉永6)年6月3日、アメリカ東インド艦隊の司令長官ペリーが軍艦四隻を率い浦賀に来航し、国交を求める国書を持参しました。この緊急事態に対応するため、直弼は7月に江戸に戻ると、幕府は品川台場の築造に着手し、彦根藩は羽田・大森の警衛を命じられています。一方で直弼は、米国親書に対する意見書「別段存寄書」を幕府に答申し、堂々と開国論を主張されています。翌1854年(嘉永7)年1月にはペリーが再び来航、3月に「日米和親条約」が締結されると、彦根藩は羽田・大森の警衛を解かれ京都守護に命ぜられたため、直弼も5月に彦根に戻りました。その後も毎年のように彦根と江戸との間を参勤される多忙な日々が続きます。

黒船横浜来航(パブリックドメイン)

1857(安政4)年に米国総領事のハリスが幕府に自由貿易を要求する国書を提出すると、翌1858(安政5)年4月に国内外の難局打開のため大老に就任した直弼は、「日米修好通商条約」を調印、6月には紀伊の徳川慶福を将軍家定の継嗣に決定しました。開国は直弼の国際協調・平和思想に基づくもので、直弼は外国と戦争をすれば必ず負け、植民地となり、子孫まで苦渋の生活となることを見通していたのです。政治や外交は幕府に一任されていたので開国を決断してよかったのですが、尊王家の直弼が天皇のご意見や諸大名の考えを聞こうとしたことがかえって裏目に出て、日頃より幕府を良く思っていなかった薩長等の外様藩や、岩倉具視ら不平のある低位の公家が策動し、わが子慶喜を将軍継嗣とすることを狙っていた徳川斉昭をはじめとする一橋派が条約締結に消極的だった天皇を動かし、倒幕の密勅(偽勅という説もあり)を出してもらうという暴挙に出たのです。これに対して幕府は水戸藩の家臣や吉田松陰らの倒幕密勅関与者を逮捕、当時の法令に従った裁判の結果処罰しました。これを後の史観から「安政の大獄」と呼んでいますが、あの時もし条約締結をしていなかったら、その後の日本はどうなっていたのかを考えてみてください。同年12月には、孝明天皇から条約締結を了解したとの「沙汰書」も下されています。また将軍・家茂公よりも直弼の国難を救ったことへの功績を讃え、「鞍と刀」を贈られています。

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日米修好通商条約 1858/7/29(This file is licensed under the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported license. Attribution: World Imaging)
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1860(安政7)年3月3日、江戸城で上巳節句の祝儀が行われるとのことで、午前九時頃直弼は総勢六十人のお供を従え、外桜田の井伊家屋敷を出て江戸城に向かっていました。遠くには大名の登城を見物しているかのように浪人風の侍一団が待ち構えていて、行列が近づくとその中の一人が、供頭らに斬りかかってきたのです。この日は季節外れの雪に見舞われ、刀には雪除けの柄袋が掛けられていたことも災いし、供頭らは柄袋を外すことができず斬り倒されてしまいました。そして唯一人の薩摩藩士有村治部左衛門の発した銃声が一発とどろき、他の水戸脱藩浪士等が切り込んできました。この銃弾を腰に受け動けなくなっていた直弼は有村によって駕籠から引きずり出されたうえ、首を切り落され絶命しました。享年46歳でした。テロリストたちの襲撃によって時の大老は殺されました。

桜田門外の変(パブリックドメイン)

桜田門外の変の二か月前、直弼は自らの肖像画を描かせ、そこに和歌の一首を添えて菩提寺・清凉寺に奉納しました。この軸は他にも何本か作られ、現在埋木舎を所有する大久保家の先祖、大久保小膳にも贈られていて、以降今日まで大久保家代々で守り伝えています。

 

あふみの海磯うつ浪のいく度か 御世にこころをくたきぬるか那

 

死を決しての懸命の政治も、善意の伝わらない反体制グループ、テロリストはいつの世にもいたのです。そして直弼が命を落とす前日の和歌は、その予感を自らも感じておられたことを暗示させるものです。

 

咲きかけしたけき心の花ふさは ちりてぞいとど香の匂ひぬる

 

命をかけて開国の花の大輪を咲かせ、我が国の平和と国際協調を創り出した直弼の人となり、「心意気」が和歌を通じてひしひしと伝わってきます。

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井伊直弼像(パブリックドメイン)
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