埋木舎 10の不思議 ~現当主が語る~

 

1)大門の鬼瓦 表は武家、裏は寺

井伊直弼公が17歳より32歳まで文武両道を15年間に渡って修行した藩公館・尾末北屋敷(直弼はこの館を「埋木舎」と号した)は、徳川幕府・譜代筆頭の代藩主井伊直中の息子の居住としては質素の武家屋敷である。十四男坊であったので弟直恭と一緒に暮らしていたのであった。しかし屋敷のある場所は彦根城多門櫓の中堀の対面に位置し、長い白壁の堀にいかめしい武家門が二、三段の踏み石の上にどっかりと発ち、瓦葺きの屋根と門柱も太く板戸も厚い。瓦屋根の左右には鬼瓦がついていたが、門を表から見ると、武家門によくついている渦巻の様な柄であるが、門の内側には菊の花の様な飾りが左右の鬼瓦についている。これは寺の門の鬼瓦の左右にはよくついている花柄だそうである。直弼は埋木舎の玄関を出て、大門を出るまでは心の安らぎ仏教の心、特に「禅」では曹洞宗「清凉寺」で仙英禅師に師事してその奥義を究め印可証明と附偈(ふげ)を授けられていた人である。埋木舎に居る間は宗教家としての修業を生活や就業の礎としていた。大門の内側、即ち埋木舎内での心意気を鬼瓦の柄で象徴していたのであろう。しかし、埋木舎を一歩出れば武家、特に藩主の弟としての立振舞が注目されるであろうから、しっかりと自覚せねばならないという決意の心を、外側の鬼瓦の武家の紋様で表していたのかもしれない。いずれにしても直弼の心意気の深さを昇華しているものと言えよう。

2)玄関先、斜めの廊下が左右に2列

埋木舎の屋敷の平面図を見ていただきたい。表門を入ると、両側には白壁の土塀がありその各々に屋敷内に入れる木戸がある。すぐには庭や勝手口には入れない防御となっている。「たのもう!」と大声を出せば右側の侍詰室から「どーれ」と返答がありそうな雰囲気を現在も保っている。玄関に入ると、正面は厚い板張りの四板の引戸になっている。その左側には巾一間の表座敷に通ずる一寸した廊下があるが、これが左方向に40度位斜めになっているのが不思議である。建築専門家に伺ったことがある。「これは大変の工夫で玄関に入ってきた客人からは奥の座敷が見通せないようになっており、表座敷に誰が居るか、居ないかは判らない。大きな屋敷で長い廊下を通って座敷へ行くのであれば奥の情況は全く判らないので安心であるが、埋木舎は部屋数が少なく廊下も長くないのでこの様に工夫されていて、大変貴重な建て方である。」と言われたことがある。埋木舎第二の不思議もこれで解明された。尚、並行して同じく斜めに作られている廊下の方は侍の詰室より女中部屋を経由して奥の部屋へ通ずるためであり、家人や使用人が日常通る。左の座敷に通ずる廊下の方は主人か客人しか通らなかったようで、やはり身分による差別があったのかもしれない。

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3)茶室「澍露軒」には躙り口がない

 

直弼は「茶・歌・ポン」とあだながあった如く、茶の湯、和歌、謡曲の鼓については達人の域にまで学び実践し、文化人としての人格形成に昇華していった。特に茶道では埋木舎時代「宗観」「無根水(むねみ)」と号し、石州流で一派になるほどの実力を誇った。その中核が茶室「澍露軒」であったのである。ここで「一会集」という有名な茶書を書き「一期一会」「余情残心」「独座観念」等の茶の湯の直弼流スピリットを醸成していった。埋木舎の表座敷から奥の御居間に通じる角に茶室「澍露軒」がある。この名は法華経の「甘露の法雨を澍(そそ)ぎて煩悩の焔を滅除す」の一文からとったものである。茶室は、四畳半に一畳半の水屋をしつらえている。

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​この茶室には不思議なことに躙り口がない。何故無いのか不思議である。そもそも埋木舎時代の直弼はわずか三百俵の捨扶持にて貧乏であった。茶室も金があれば庭の別棟に粋や風流を凝らして贅沢な庵を造るものであるが、直弼はいかに金をかけないで茶室を造るかを考え、廊下の角を利用して四畳半と水屋を造った。従って茶室の庭側の天井は斜になっており一見風流に見えるが、居間のある棟の大屋根より延ばした庇の処であるから斜めになっているのである。水屋は何とか一畳半ほど作れたが、いわゆる「躙り口」が無い。これは単に約二尺二、三寸四方のくぐり戸を造れば良いというのではなく、その口の前には履物置や待合室、武士の場合は刀等預る処等々造らねばならず建設費は膨らむ。直弼は「躙り口」と「床の間」も省略したのである。茶室には二カ所の入口があって、一カ所は表の座敷の廊下より「引きふすま」を開けてすぐ茶室に入る「茶道口」があり亭主が茶を点てる左側に約70cm四方程の木の引き戸の出し入れ口「洞庫」と呼ばれるものがある。ここより茶道具等に手を伸ばして茶を点てる人の近くに出すことが出来、一々立って歩いて又座し道具類を運ぶ必要は無く簡略化される。もう一つは御居間の方からの入口で、その板戸には継ぎ目に竹がつけてあり、入り口の上の部分にもしゃれた曲がった木の枝がつけてあり躙り口にとらわれる事なく風情のある引きドア式となっていて、客人が入る口であると思われる御居間と茶室の間には六畳の中庭も眺められる部屋があり「寄付」としての扱いで使われたものか、客人が刀や荷物を預けて茶室に入る場所であったのであろうと推察される。表座敷の「床の間」は澍露軒の茶室の一部として活用し茶会には必須のものである軸をかけ、花を入れる場所としたと推察される。直弼は茶室を豪華にするのではなく、茶室での茶道やその精神を重視していたことがよく判る。ちなみに、彦根藩主の居住する御殿の茶室「天光室」にも床はあるが「躙り口」は無い。-この項は摂草庵流(直弼流茶道)宗家の前田滴水氏からも伺った-

4)座禅の間の釘隠しー2匹の兎

直弼は禅寺「清凉寺」へ頻繁に参禅し、仙英禅師から袈裟血脈さえも授与された人である。埋木舎での座禅も毎日のお勤めであった。南棟には仏間と座禅の間がある。この部屋の長押(なげし)の横木にはそれを止める釘が何か所かあり、その釘を隠す飾り物などがついている場合が多い。埋木舎座禅の間の釘隠しには2匹の兎がアレンジされた飾り金具がついていて風流なものであるが、これは開運招福の兎であり、心安らかになる。直弼の和歌には月に関するものも多く「月に兎」のイメージを持っておられたのかもしれない。

5)庭造りと水琴窟

「水琴窟」とは庭園施設の一つ。つくばい近くの土中に伏せて埋めた「甕(かめ)」の底の小さな穴から水滴が底に溜まった水面に落ち、「甕」の内部に反響して琴のような音を出す仕掛け。江戸時代の庭師の考案という。(講談社・日本語大辞典より)

埋木舎の屋敷図面を見ていただきたい。質素な庭園の中で水琴窟はまず茶室の角(☆の処)より始まり、御居間と仏間の角、さらに勝手入口と番の侍の居住している長屋の間にも造られている。直弼は、雨が降ると茶室や居間から風流なキーン、キーンという音を聴き、雨も風情があると心を安らめることであろうが、同時に家に居る人々、警護の侍(長屋)や女中の人々にも気を配り、同時に雨降りの風情を共に感じてもらう心の広さこそ真の風流人、文化人であったのであろう。因みに、今日でも雨が降り出すと静寂たる埋木舎で水琴窟の妙なる音が聞こえてくるのである。

6)直弼の心のシンボルの木「柳」

柳ー直弼は「柳の木」の風に逆らわぬ柔順な姿に魅せられて埋木舎にあっても、こよなく「柳の木」を愛し心の礎としていた。埋木舎を「柳王舎(やぎわのや)」「柳和舎」とも呼び、「柳」にまつわる和歌を数多く残している。俳句集としては「柳迺落葉(やなぎのおちば)」があり、和歌集としては「柳迺四附(やなぎのしずく)」がある。

一つ和歌をあげれば、

「そよく吹くかぜになびきてすなほなる姿をうつす岸の青柳」や

「うゑ置し柳の木の芽はるばると開くもうれしき人の言の葉」

等、埋れ木時代は「月」や「すすき」の歌とともに「柳」にまつわる歌が多い。因みに直弼は人生訓として「むっとして戻れば庭に柳かな」という大島蓼太作の俳句を常に好み、いろいろと腹立たしいことがあっても埋木舎に帰って柳を見て、柳の様にやわらかく逆らわずに心を安らかにしていた「和敬清寂」の心境に戻っていたのであろう。現在でも埋木舎大門を入ってすぐに柳の木が植わっている。

7)庭の木々には薬草が多い

「花の好きな人はやさしい心」とよく言われる。埋木舎は藩主の息子の住居としては質素で庭も広くない。しかし直弼はそれに満足して15年間も居住し文武両道の修業に熱中したのであった。直弼はこの埋木舎の中で最大限に心も豊かにしていった。茶道や和歌や禅はまさに達人の域であったが、庭の木や花についても埋木舎のスペースの中で、フルにその価値を高めていたと思われる。筆者は東京に在住しているので埋木舎はその管理や公開に付いては彦根在住の主幹さんにお願いしているが、18年間もお務め頂いた堤義夫様(元滋賀銀行の支店長さん)が何年も埋木舎で実際に観察されていた庭の驚くべき数の花々をお調いただいた記録をまず申し上げると次の如くである。

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その数の多さに驚くとともに、一年中直弼が庭に出て花を愛でる姿を彷彿とさせる。しかし、驚いた事には、庭の草花の中にはいわゆる「漢方薬」で使えるものも多く含まれていたのである。直弼は医学、薬学の知識も持っていたと思われる真に不思議なスーパーマンであった。埋木舎時代、国学者・長野主膳(後に直弼のブレーンともなる人)を紹介した人は前よりの知人、医者・三浦北庵であり、茶人直弼より茶名を給わった十七名の内、高弟の第一に中嶋宗達がいるが、この人も医者であった。(因みに筆者の曽祖父大久保小膳(直弼側役)は、宗保という茶名を二番目に頂いている)直弼は医者達・文化人とも種々語ることがあって漢方薬や病気治療のこと等も話題になり、薬用の草木も教わって植えたのかもしれない。

次に現在までも埋木舎に植わっている薬草について述べようと思う。薬草の知識についてはそのご専門家である謝心範博士(武蔵野学院大学大学院教授)より種々教示をいただいた。尚謝博士は中国の「中華本草」「中国薬典」「本草拾貴」「今類草薬性」「福建民間草薬」「医林纂要」等の中国原典にも当られての御回答であった。直弼は高度の医学や薬学の知識も多く持っておられたことは真に不思議なことである。

つわぶき

濃く煎じ詰める→湿布

皮膚病 打ち身 腫れ引く

風邪 咳止め 痰を消す

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あせび

肝機能調整 通便

毒性(アセポトキシン)もあるので殺虫剤としても使用

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せんだん

痛み止め(胸痛 腹痛 心臓痛)

樹皮は虫くだし

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どくだみ

解毒 利尿 咳止め 傷消炎 消腫 下痢止 肺炎 痔 淋病

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なんてん

縁起ものであるが葉、実、茎、根→すべて生薬 せき 喘息 気管支炎

「南天茶」 解熱 健胃 咳止め

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おもと

「万年青」と書き縁起が良い

解熱 解毒 止血 強心 利尿 咳止め 鎮痛 解蛇毒

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ざくろ

止血 吐血 外傷 歯痛 下痢止

生理不順 火傷 駆虫

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つばき

胃腸病 急性下痢 高血圧 糖尿病 咳止め 皮膚炎

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8)安産の神の祠(ほこら)

埋木舎の屋敷図をご覧いただきたい。南棟の座禅の間に続いて「御産の間」というのがある。天井に金具の輪があり、そこにひもを通して産婦が力んで出産する室で湯殿にも隣接し産湯にも便利な室である。直弼と側室・志津との間に1846(弘化3)年正月十六日、次女「弥千代姫」が生まれる。直弼は御産の間の正面の庭に「安産の神」を祭って、毎日安産を祈願した。姫が生まれたすぐ二月に直弼は江戸に出立、ゆっくり赤子にも会うことができなかった。然し江戸より早飛脚で度々志津に手紙を送り、志津を労い身体を大切にと見舞うことはもちろん、生まれたばかりの赤ん坊には武家の姫として質素に育ててくれと、よき親父ぶりを伝えていた。弥千代姫は後に立派に成長し、高松藩世子・松平頼聰(よりとし)に嫁したのである。因みに志津との間の子はこの姫一人で、他には跡取・直憲と直咸、直安(与板藩主になる)、直達と多くの男子、それに六人の女子がいるが、全て側室・里和との間の子供達である。尚、正室は直弼が藩主になってから丹波亀山藩主・松平信篤の妹、昌子の方である。

9)屋敷内には井戸が七つも掘られていた

また埋木舎の屋敷図をご覧いただきたい。「井」の字を〇で囲んだマークで示した場所にある。表門を入って玄関迄の砂利敷の処にまず二か所の井戸がある。遠出したときの馬に飲ませたり、足を洗う井戸と言われている。台所には勝手口と長屋前との広い場所に二か所、台所に一か所ある。台所を囲むように四ケ所も井戸があるのは、防火上大いに心を配っている配置であると専門家が驚いていた。この他、御居間の側(お茶室でも使用)、裏庭にも井戸があり、合計七ヶ所の井戸とはこの規模の屋敷には多すぎるくらいなのも不思議である。

10)御居間の便所の金隠しの向き

埋木舎には四ケ所の厠(便所)がある。表座敷、御居間、風呂の側、それに使用人や番の侍が使用する外から入れる厠である。

ある建築専門家の方から伺った話。御居間(常時直弼が使用の所)の厠の金隠しの向きが通常と異なると言われた。その向きは通常とは逆に入口の方を向いている。これはいつ怪しい者が用足しの時襲ってきても即効防御できるためだと言われた。武士はトイレの時も刀を持って入りたてかけておいたのであろうか。