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直弼公と「武道」 ―平穏なる守りー その2

(直弼公と「武道」 ―平穏なる守りー その1からの続き)

本稿は、著者である埋木舎当主・大久保治男氏の許諾を得て、滋賀県人会報99号に掲載された記事を基に構成されたものです。



 直弼は32歳の弘化3(1846)年2月に15年間文武両道の修行をした埋木舎を離れます。兄12代藩主・直亮の養子となり江戸城「溜間詰」として勤めることとなったためです。そして4年後・嘉永3年9月には養父死去にともない直弼は第13代彦根藩主となり各種善政を行いました。


 3年後の嘉永6(1853)年6月、アメリカ使節ペリー提督が軍艦(黒船)4隻を率いて浦賀に来航、日本の開国・修好を迫り国内騒然となります。しかし直弼は「別段存寄書」を幕府に答申、堂々と開国を主張するのです。


 「鎖国はやめ、開港、開国し、世界と貿易し、各国と平和に国交する事こそ天下の大道である。また、漂着民の送還や食料、水、石炭の補給の為の買い上げ等ペリーの要求は人道上当然である」として安政5(1858)年4月大老就任後に鎖国をやめ「開国」し国際協調するという立派な決断をされ、我が国はアジアで唯一欧米の植民地になることはなかったのです。

 

井伊家文書「公用方秘録」には、「…兵端を開き幸いに一時勝を得候共、海外皆敵と為す時は全勝孰(いず)れに在るや予め量るべからず、苟(いやしく)も敗を取、地を割き償はざるを得ざる場合に至らば国辱これより大なるはなし…」と記されており、まさに新心新流の「保剣」によって外国との戦争を回避し国難を救い国の独立を守った直弼公こそ真の勝者、武道の真髄を会得した「サムライ」であったといえましょう。

(埋木舎当主 大久保治男)


晴天の彦根城お濠と白鳥
彦根城お濠(埋木舎前)

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