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埋木舎の「御産の間」

 埋木舎の部屋数は「主棟」に御座敷(来客用)、御居間(直弼公日常生活)、お茶室「澍露軒」を中心に他に若党部屋、女中部屋、台所など十五室位あるが、この主棟から丁字型に南方向に延びている「南棟」には、仏間、座禅の間に次いで「御産の間」が並ぶ。他には長屋門につづく上下二階建の中ほどの階段に区切られた侍達が居住するいくつかの部屋や馬小屋がある。

 五畳の「御産の間」には天井に金具の直径二十センチほどの輪が吊り下がっていて(現在は外して保存)その輪に紐を通して産婦がその紐をにぎって力んで出産する部屋である。江戸時代のお産は座ってする「座産」が常態であった。背中にふとんを積んだり、米俵を置いて背もたれを作り上体をおこし天井から下がった力綱(ひも)をにぎって下半身に力をこめ自力で分娩するとのこと。埋木舎の御産の間の天井の輪はこの力綱を通し下げたものであろう。夜具の下には出血等あるため「むしろ」を敷いたという。御産の間の隣りは風呂場と脱衣室になっている。

御産の間 お産の図

 直弼は側室・志津との間に弘化三年(1846)正月十六日、次女「弥千代姫」が埋木舎のこの御産の間で生まれる。大喜びであった。直弼はこの御産の間より十メートル位の正面の庭に「安産の神」を祭った祠を造り、志津と共に毎日、安産の祈願をしていたのであった。しかし十日後に世子直元公死去の報にて急遽、江戸へ下向せよと急飛脚到来、二月一日、埋木舎を出立することとなる。江戸よりは志津に弥千代姫の教育方針等多くの手紙を出している。二月十八日には兄・直亮の養子となり、二十八日には直亮に伴われ江戸城へ登り、将軍に初目見えするという、埋木舎での平穏な幸せの日々から公人としての大転換が起ったのであった。

 因みに、この弥千代姫は後に高松藩世子の松平頼聰(よりとし)に嫁し、桜田事変後の井伊家にとって幕末、維新期に大いに力になられるのであった。


直弼は直亮公の嗣子となってから、彦根藩士、西村忠次の娘・里和を側室として、嘉永元年(1848)直憲、二年・直咸、四年・直安(後の与板藩主)、五年・直達とそして女児三人の子宝に恵まれていた。

また、直弼は井伊家の格式から正室を迎えることとなり、嘉永五年七月、丹波亀山前藩主、松平信豪公の娘・昌子様と結婚、江戸屋敷で生活される。昌子様は十八歳、直弼は三十七歳で何と親子ほどの年齢差があった。桜田事変後も貞女として立派に未亡人を務められたという。(当主 大久保治男)


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